今日はIsmoの来日公演が実現するまでのいきさつについて、後編を書きたいと思います。
Ismoとの出会いまでの前編はこちら
こうして、私のフィンランド通いが始まりました。目的はもっぱらライヴです。 老化の始まってる頭でフィンランド語も一から勉強しました。 あるとき、ライヴ会場で出会った女性にIsmoを知ったきっかけについて話したところ、「そのソ連でのライヴに私もいたのよ」と驚くべき答えが返ってきました。 彼女は私にIsmoの歌詞を読むことを勧め、親切にわかりやすい英訳をしてくれました。 このブログでご紹介する歌詞の対訳は、彼女の助けなしには決して成しえなかったものです。本当に心の底から感謝しています。 歌詞の内容を知ることによって、Ismoは私にとって、ますます特別な存在になりました。 Ismoほど自分に近い内面を持った人間には、これまで出会ったことがありませんでした。一見、強靭にみえるIsmoが抱えるさまざまな葛藤や苦悩を知ったとき、心のふるえが止まりませんでした。でも、Ismoには決定的に私と違うところがありました。それは、常にそれらとポジティブに対峙していく姿勢を持っていることです。 私はIsmoから多くの生き方を学びました。当時、いろいろあってドン底で疲れ果てていた私が、まさか40代にもなって、もう一度新たな人生を歩み直せるとは! この人生を変える大きな力を持ったIsmoの音楽を是非日本に紹介したいという思いが、私の中でしだいに強くなっていきました。 しかし、いったいどうしたらよいのか?フィンランドの国民的な大スターを自分の手で日本に呼ぶことなど、夢のまた夢だと思っていました。 そこにある転機が訪れました。 フィンランドのロック史に残る偉大な某バンドが期間限定で再結成したのです。そのバンドのボーカルのK氏に「もし日本に呼んだら来てくれますか?」と尋ねたところ、「都合が合えば行くよ!」ととても前向きな返答をいただきました。 このチャンスを逃したくない。活動の意志があるうちに、何としてでも彼らを日本に紹介したい。その一途な思いから、来日費用は自費でまかなう決意をし、思いつく限りあらゆるところへ招聘の協力依頼を試みましたが、結果は惨敗…。 この経験を通じてわかったことは、日本で知名度の低いアーティストの来日が難しいのは、金銭的な問題だけではなく、将来的に日本国内での何らかの展開を見込めないアーティストの招聘に進んで携わろうとする人はほとんど皆無だという事実でした。そんなボランティアみたいなことに費やす時間も労力もない。それは当然といえば当然の話です。 これはもうすべて自分の手作りでやるしかないと思い、バンドで呼ぶことは断念し、K氏のソロという形での来日の内諾をいただきました。(この企画はいつか必ず実現したいと思っています。お楽しみに!) その頃、Ismoは人数の多いバンド形態で活動していたため、はじめからあきらめていました。ところが、突然、いくつかのソロライヴが例外的に行なわれたのです。 私の“このチャンスを逃したくない病”が再燃し、ライヴを見に行った際に思い切ってIsmoに来日の打診をしてみました。2016年春のことです。Ismoはとても驚きつつも、興味を持ってくれた様子でした。 しばらくして、Ismoから来日について良い感触のお返事をいただきました。 しかし、どういう形で実現すべきか具体策が見つからないまま、時が過ぎていきました。 そこに最終決定打ともいうべき出会いが訪れたのです。 MUSIC PLANT主催で、11月に札幌で「サウンド・オブ・レボリューション~グリーンランドの夜明け」というグリーンランド語で歌う最初のロック・バンド、スミ(Sumé)についての映画の上映会がありました。 私は現在札幌在住ではないので、普段であれば平日の夜のイベントに参加することは難しいのですが、この日はちょうどフィンランド旅行からの帰国日で札幌に寄ることができたのです。 MUSIC PLANTの野崎さんのことは以前から存じ上げていましたが、伝統音楽が中心なのでジャンルが違うと思い、これまで問い合わせたことはありませんでした。でも、これは何かの運命かも…と感じ、ダメ元でメールしてみました。 そのあたりのいきさつは、野崎さんが書いてくださったブログをご参照いただければと思います。本当にどうもありがとうございます!
野崎さんのブログはこちら
私は喜び勇んで、信頼できるプロモーターが見つかったことをIsmoに連絡しました。
まもなく、Ismoからお返事がありました。 「彼女に私の連絡先を伝えてくれ。この件について交渉しよう。」 (終) (参考)2015年10月、アルバム「Ismo Kullervo Alanko」リリース前日に、Radio Suomipopにて、スタジオミニライヴが行われました。これが久々のソロ活動の始まりとなりました。この時点ではまだ、あくまでも例外的な形でした。
そのときの映像はこちら
4 Comments
私がIsmoの来日公演を企画するに至ったいきさつを書いてみたいと思います。
まず、今回はIsmoと出会うまでの前編です。 今振り返ってみると、いろいろな偶然が少しずつ繋がって、辿り着くべきところに辿り着く運命の不可思議さみたいなものをつくづく感じます。 私はもともと音楽マニアで、日本に紹介されている膨大な音楽は世界の音楽の縮図だと思い込んでいました。 あるとき、ハンガリーのOmegaに関するやりとりを通じて、当時親交のあったジャーマンロックのマニアの方から、お礼として、ドイツのテレビ局WDRで放映された「Die Deutschrock-Nacht」という音楽特番の録画をいただきました。 そこで、Ton Steine Scherbenを知り、故Rio Reiserにすっかり魅了されました。同時に、Rioはドイツ語ロックの開拓者として本国では有名であるにもかかわらず、日本ではほとんど知られていないという事実に大きなショックを受けました。 それ以来、私は世界中の非英語圏の母国語で歌われるロックに興味を持ち、自力でいろいろ調べていくうちに、どの国にも多くの国民に愛され、支持されている素晴らしいアーティストがいることに気づきました。当たり前のことなのですが、それは私にとっては新鮮な驚きであり、自分がいかに井の中の蛙だったか思い知らされました。 やがて、私は共産圏のロックにハマりました。とにかく、共産圏ではロックに対するモチベーションが全然違います。ちょうどその頃、精神的にまいっていたので、そういう音楽により共感しやすかったのかもしれません。 (余談ですが、前述のOmegaの本国での立ち位置を考えると、日本ではほとんど“プログレ”の範疇でしか語られないことにかなり違和感を感じたりします。) ロシアのロック史について知りたくて、「ゴルバチョフはロックが好き?」(アルテーミー・トロイツキー著)という本を読んでいたところ、モスクワで行われた第12回国際青少年フェスティバルの話が出てきて、その中にフィンランドのシエルン・ベリエット(Sielun Veljet)に関する記述がありました。 彼らのライヴを見た元アフトーグラフのメンバー、クリス・ケルミの言葉「ぼくたちは、自分たちの肉体を使ってここまでやることができない。たとえ禁止されていなかったとしても...彼らのようにはやれないんだ」が深く胸に突き刺さりました。そして、同時にシエルン・ベリエットって一体どんなバンド??と私の好奇心は果てしなく膨らみました。 ちょうどそのタイミングで、共産圏ロック仲間であり、海外からのCD共同通販仲間でもあった友人から、なぜか急に「フィンランドからCDを取り寄せよう」というお誘いがありました。 こうして、私はSielun Veljetをはじめ、Ismo Alanko関係のCD、DVDを何枚か購入したのです。2010年夏の出来事でした。 そのとき購入したSielun VeljetのDVDに収録されていたL’Amourder名義の87年モスクワでのこのライヴ映像は強烈なインパクトがありました。 (この”I have a dream”という曲は、”On mulla unelma”の英語バージョンです。この曲の紹介はまた後日。)
このDVDの詳細&購入はこちら
そして、まもなく2011年にヨエンスーで開催される夏フェス Ilosaarirockの40周年記念として、Sielun Veljetが再結成されるというビッグニュースを知り、初めてフィンランドを訪れたのでした。
ですから、私は厳密にはフィンランド好きというよりは、Ismoがいるからフィンランドを好きになったのです。 |
Authorこのブログは、Ismo Alanko来日公演実行委員会が運営しています。Ismoファンの交流の場にできればと思っておりますので、どうぞお気軽にご参加ください。 Archives
November 2018
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