今日は、5/17にリリースされたIsmoの新曲「Ei oikeutta」をご紹介したいと思います。
このシングルをプロデュースしたのは、アルバム「Kun Suomi putos puusta」、「Irti」などのプロデュースを手がけ、Ismo Alanko SäätiöのギタリストでもあったIsmoの旧友 Riku Mattilaです。 この曲は、まず今年の3月にフィンランドで行われたソロツアーで初演され、5月4日~6日にかけてタンペレで開催されたIsmoフェスティバルの中でも、ソロとバンドの両方で演奏されました。 Ismoはこの曲について以下のように述べています。 「”Ei oikeutta(権利はない)”は、今日の破壊的な矛盾についての混乱させるスペクタクルだ。過酷なペーソス、厳しい炸裂、そして悲しい歌詞をもつ元気のいいグラムロックのサビ。中間部では、音楽によって、けだるい都市の微笑む人々の内面の混乱が描かれている。そして、このすべてが3分39秒の中にある。」 リリース前に、IsmoのFacebookに歌詞が語られたビデオがアップされました。 また、リリース後には、Ismoの曲解説のビデオもアップされました。 日本語訳 「自分自身を当惑させるテーマに関する曲を作りたかった。すなわち、その真っ只中で私たちが生きている情報の洪水について。20年前、当時どれくらいの情報量が人々の脳の中に入ってきたか、今日と比べてみよう。それは本当にものすごい。100万倍くらいの量の内容を脳の中に押し込む。そしてそれは人々の中に、矛盾した感情のようなものや苦痛、不安を引き起こす。例えば、ある調査によると世界一幸福な国民であるフィンランド人は、世界で最も幸福なようにはちっとも見えないと感じている。あるいは、もしここで人々が世界で最も幸福なら、他のどこかで人々がいったいどれだけ不幸か想像することができるだけだ。このようなテーマについて歌うことは、ある程度その感情をほぐすことになる。そしてそれはある程度、本当に俺には人生の中で何かちっぽけな幸福のかけらを楽しむ権利があるじゃねぇかということだ。でもそれは難しい。ある程度、この曲への反応が、クソったれイスモ、俺には権利があるぞであることを願っている。」 *歌詞は、フィンランド人の友人Mさんによる聞き取りに基づいて翻訳しました。(いつもご協力いただき、どうもありがとうございます!) Ei oikeutta 権利はない 俺には幸福への権利はない ただ自由に楽しむことができない 世界の血管の中で沸き立つとき 俺には幸福への権利はない 世界は 原子として、小片として そして人々として 真実は 光が掃きのける影 精神は バラバラで、微塵になって、粉々で そして もはや誰も魂について話さない 世界が燃える、俺の中では ただ愛が燃え立つ 絵の中の死、周りには人生 邪悪の叫びは 友人たちの笑いの中へ包まれる 俺は夜の中へ頭を押しつけ、有罪のマントをまとう 俺は肩に滅ぼされた人生の廃墟を運ぶ 俺には幸福への権利はない ただ自由に楽しむことができない 世界の血管の中で沸き立つとき 俺には幸福への権利はない 不幸の中の健全で幸福な人々 自由で純真な人々が恥のために震える けだるい都市の微笑む人々が コンピューターへ身をかがめる 虚無の中へ漏れ出るために 俺には幸福への権利はない ただ自由に楽しむことができない 世界の血管の中で沸き立つとき 俺には幸福への権利はない
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この曲は、Ismo Alanko Säätiöの4枚目のスタジオアルバム「Minä ja pojat」(2004)に収録されています。 このアルバムは、フィンランドの公式チャートで1位となり、ゴールドディスクも獲得しています。 来日ツアー中、日本のファンの方からこの曲のリクエストがあり、Ismoにお伝えしたところ、「この曲は去年、フィンランドでの春のソロツアーでやったことがあったよ」と話していました。 リクエストをくださった方、どうもありがとうございました! Pakko tehdä duunii 仕事をしなければならない
ちょっぴり微笑みながら 太陽の中で横たわりたい どのように波が海岸の砂をこするか(注1)聞きたい 海の抱擁の中で浮かびたい 口の中へ押し込むはずのショットガンなしに、ロックなとき クソ そうだぜ たぶん万事オッケー、たぶん万事オッケー だけど仕事、仕事をしなければならない 仕事をしなければならない せっせと働かなければならない、お金を得るために 再び焚き火のマジックサークルへ達したい どのように雨がコテージの屋根へビートを刻むか聞きたい 感じたい、秋の香りが鼻の穴へ押し入るとき そして畑のわきの小さなポルチーニが招く ウキウキさせるパーティーへ、とてもウキウキさせる 中ジョッキビールの(注2)傍らで話を聞きたい 仲間たちに支えられて 認めたい 自分はうかつで 迷える者だと(注3) なぜこうなのか、わからない、でも知っている 明日が にやにやしながら やってくることを 俺をののしりながら なぜなら仕事、仕事をしなければならない 仕事をしなければならない せっせと働かなければならない、お金を得るために 注1;原詩では「hieroo (hieroa)」。「マッサージする」の意味もある単語が用いられている。 注2;原詩では「tuopin(tuoppi)」。1パイント(約0.5ℓ)のビールをさす。 注3;原詩では「kelkan kadottaneeksi (kelkan kadottanut)」。「そりを失った者」の意。
この曲は、Teho Majamäkiとのデュオ Ismo Alanko Tehollaの1stアルバム「Blanco Spirituals」(2008)のラストナンバーです。
ちなみに、tehoにはICUの意味もあるため、このユニット名は「ICUにいるイスモ・アランコ」ともなる言葉遊びになっています。 2007年~2014年にフィンランドで放映されたKemijärviを舞台としたTVドラマ「Taivaan tulet」のテーマ曲は、この曲のインストヴァージョンであり、そこではフルート以外のすべての楽器をIsmoが演奏しました。(フルートはIsmoの弟 Petri Alanko)
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こちらがTVドラマのテーマ曲です。 Taivaan tulet 空の火(注1) 俺はすべてやれる、すべて耐えられる 苦しみを取り払う、困難を防ぐ すべて否定する、俺は正しい 空の火を見つめながら すべてのものには どこかに自分の場所がある 俺はまだひとりで回っている 俺の穴の中で もつれた気分で 空の火を見つめながら 俺は目覚める とても光あふれる夜へ そこでは 生が奔放に暴れまわる 俺は目覚める とても荒れ狂う夜へ そこでは 恋人たちを待っている 俺は出会う 空へ向けられた視線に 俺は感じる 贈り物としてもたらされた幸福を いにしえの魂が 時をたがえず出会う 空の火を見つめながら 俺は解き放つ、それが来るにまかせる 降伏する、戦いをやめる まなざしが変わる 夜のさまよえる者の中で 空の火を見つめながら いにしえの魂は正しい 空の火を見つめながら 愛が生まれる 夜のさまよえる者の中で 空の火を見つめながら 注1;オーロラをさす。 この曲は、1986年にSielun Veljetのシングルとしてリリースされました。 「Myytävänä!」(1989)、「Aina nälkä -Veljien 20 pahinta hittiä」(2003)、「Maallinen vaellus 1983-2011」(2011)など、Sielun Veljetの各種ベスト盤にも収録されており、ライヴでもしばしば演奏されます。 Ismoの描き出すイメージは、ありきたりな固定観念にとらわれないからこそ、新鮮な印象を与え、説得力があるのだと思います。 Kevät 春
車両基地が溜め息をつく、太陽が昇るとき 光が話す、5月だ 秋の荒涼さが 魂へ降り注いだ 夏が 疑い深い人々を迷わせた 子供のころ 雪を食べたとき 冬の夕べの魔法を感じる 今 輝きが人々を招く フキタンポポを読みに(注1) 春、最初の春 患者たちがモルヒネを叫ぶ 春、最初の春 病院の廊下の青白い夢を 春、最初の春 車両基地が溜め息をつく、太陽が昇るとき 光が話す、5月だ 精神は冬の黒ずんだ地面の中にある でも 世界は笑わせるようだ 愛は 私たちを運ぶ ひどいめにあわせる あるいは愛撫する そして今 白樺の枝から ぶら下がり 吊り下がっている 大きな緑の馬たちが 注1;原詩では「lukemaan leskenlehtiä」。フキタンポポ(leskenlehti)は、春になるといち早く生えてくる花の1つであり、先に花が咲き、花が枯れてから葉が成長することから、「widow’s leaf(やもめの葉)」を意味する名前がついている。また、「lehti」には「葉」のほかに「新聞、雑誌」の意味もあるため、「lukea」(=読む)という動詞を用いた言葉遊びになっている。 この曲は、Ismo Alanko Säätiö の1stアルバム「Pulu」(1998)に収録されています。 昨年秋、フィンランドでのソロツアーのオウル公演で、観客のリクエストに応えて、Ismoはアカペラでこの曲を歌いました。 Lihaa ja verta 肉と血
創造者(注1)には 皿に肉と血がある 安息日の酒場で、肉と血 彼の息子の仲間たちは食べた 戸棚は空っぽに ただ肉と血を、汚いスープを 肉と血 俺は黄色、俺は緑色 俺は粘りのある淡、それは吐かれた 神の骨ばった顔の方へ うろたえた目の方へ そして それでも俺はまだ残っている 何という恥! 創造者には 皿に肉と血だけがある 安息日の酒場で、肉と血 彼の息子の仲間たちは食べた 戸棚は空っぽに ただ肉と血を、汚いスープを 肉と血 すべてのもう一方の手が穴を掘る すべてのもう一方の足の下へ すべての3つ目の口が食べる すべてのもう一方のパンを すべての4つ目のスープが煮込まれる 最後のわら(注2)へ すべての5つ目のしずくが最後のものだ そして それでも俺はまだ残っている 何という恥! 注1;原詩では「luoja」(=creator)。造物主=神の意味もあり、以下ダブルミーニングとなっている。 注2;原詩では「viimeiseen oljenkorteen (viimeinen oljenkorsi)」。「最後の頼みの綱」のような状況をあらわす比喩的表現。
この曲は、ソロ名義での3rdアルバム「Taiteilijaelämää」(1995)に収録されています。
Ismoの曲は、多彩な比喩に満ちたものが多いです。 フィンランドでのソロツアーのレパートリーに入っていた曲は、私の知る範囲ですべてご紹介しようと思い、この曲を取り上げたのですが、残念ながらネット上で日本からリンクできる音源はなさそうです。 ご興味のある方は、上記アルバムのほか、Ismo Alanko Säätiöの2CDライヴアルバム「Luonnossa」(1999) の中でも聴くことができますので、是非CDをお買い求めください。
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Pelataanko shakkia vai? チェスをしようか それとも?
チェスをしようか それとも? 祖国はちらっと見回した 悪魔は明らかなことを言った:“一緒であることはより多くだ” チェスをしようか それとも? 祖国は彼の羊飼いたち(注1)を売った 悪魔は彼の金(きん)でつり上げた(注2)、一緒であることはより良くだ ぼろぼろの十字模様(注3)を あのハンサムな若者たちはゲームした 笑い声 それは風景の中で鳴り響いた、一緒であることは心地よい 悪魔と祖国 2人の美しい青白い少年たち どちらも独り 哀れなみなしごとして、キングたちのように一緒に ある月曜日だった、ありふれた月曜日 プレイヤーのうちより優れている者が 大地を手に入れた そして 誰も想像することはできなかった 彼らのどちらかが自由になり 他方の抱擁の中へ 無条件に身を任せるだろうとは 俺が再び飛び込むこの地 大地は聖なるエネルギーだ ああ、大地よ、誰がお前を所有するのか? 宇宙が鳴るこの地 大地が俺を手に入れる チェスをしようか それとも? 永遠の裏庭の隅で 俺はしゃがむ ワモンアザラシたち そいつらが俺の駒の手をうかがう、一緒であることは退屈だ チェスをしようか それとも? 喜びの中の胸と血の中の積もった雪 そして 隣の母さんから3人の息子、一緒であることは祖国だ 俺たちはチェックメイトだけを待つ ゲームテーブルはその重みでつぶれる キングは盤の目から落ちる そして - 一緒であることは人生だ チェスをしようか それとも? 悪魔は祖国に謝意を表して 立ち上がる チェス盤を集め 勝利を数える、一緒であることは素晴らしい ある月曜日だった、ありふれた月曜日 より英雄のチェスの名手が 大地を手に入れた そして 誰も想像することはできなかった 彼らのどちらかが自由になり 他方の抱擁の中へ 無条件に身を任せるだろうとは 俺が再び飛び込むこの地 大地は聖なるエネルギーだ ああ、大地よ、誰がお前を所有するのか? 宇宙が鳴るこの地 大地が俺を手に入れる 注1;原詩では「paimeniansa」(=his shepherds)。比喩的に、見守り、導く者をさす。 注2;原詩では「nokitti kullallansa」。「nokittaa」は「賭け金をつり上げる」の意味。「kulta」には「金」のほかに「愛する人」の意味もある。 注3;原詩では「ruudukkoa (ruudukko)」(=格子)。 この曲は、Hassisen Koneの2ndアルバム「Rumat sävelet」(1981)に収録されています。 Ismoの曲には、宗教をテーマとしたものがしばしばありますが、そこにはいかに生きるかという根源的な問いかけがあります。 Tuomiopäivä 最後の審判の日
太陽が照る朝が昇る 苦悩に満ちた日がやってくる レストランが爆発する バスが木へ突っ込む そして見よ、あなたは監視されている 礼拝される肖像は監視しない それが真実 そうだ 頭は嘘に耐えられない それは説明しつづける 説明を そして 全能のカウボーイが 投げなわを 振り動かすとき コニャックとシェリー酒のグラスは 酒飲みたちを待ちつづける 避難場所を手探りしつづける 兵士たちは 幼い子供のように 責任を負わされるのは 父、母 ガキどもと白髪頭ども そして 最後の審判の日がやってくる 最後の審判の日がやってくる そのとき 皮肉屋たちも苦痛の中で叫ぶ ビジネス界のならず者たち(注1)は地球を離れる 魂は身体から分離する 祝いに、踊りに 風が空っぽの顎をガクガクさせる 誰かが墓で土をトントン叩く 祝いに来てよい 地球上で 成熟した(注2)者たちだけが 犠牲になるために 愛するために そして 全能のカウボーイが 投げなわを 振り動かすとき コニャックとシェリー酒のグラスは 酒飲みたちを待ちつづける 避難場所を手探りしつづける 兵士たちは 幼い子供のように 責任を負わされるのは 父、母 ガキどもと白髪頭ども そして 最後の審判の日がやってくる 最後の審判の日がやってくる 言葉が口から勢いよく飛び出す 葉が木から落ちる 感情の流れが止まる 言葉は言葉について語るだけだ くだらないことをしゃべるのは簡単だ そう しかし あなたは言葉を手放さずにいられるのか 言葉は軽い、しかし男は弱い 破滅の審判者があなたを連れてくるとき あなたは言う時間がない、もしもあなたが私を愛しているなら 注1;原詩では「merkonominretkut」(=scoundrels of ”merkonomi“)。「merkonomi」は商業学校で専門課程を修了した人。 注2;原詩では「lankes (langeta)」。「langeta」は「成熟する」のほかに「sin(=罪を犯す)」や「fall(=落ちる)」などの意味もある。 この曲は、1991年にSielun Veljetの12インチシングルとしてリリースされました。 Sielun Veljetの3CDBOX「Musta laatikko」(1991)、「Aina nälkä -Veljien 20 pahinta hittiä」 (2003)や「Maallinen vaellus 1983-2011」(2011)などのベスト盤にも収録されています。 詩はIsmoならではのユニークな表現にあふれています。 Laatikoita 箱(注1)
俺は壁に沿って目を投げる 俺はどうかしたのか、俺はどうかしたのか? 圧倒的に憂うつな月曜の午前 だめだ、見えない、だめだ、見えない 治療は青い一陣の風をもたらすだけ メガバンク保証へ 俺は提供する ばかでかい感謝祭の食事を すべてのピザハンバーガースーパーマーケットは天の賜物 俺たちの進路を照らすために この暗がりの中へ 俺たちは人生を反射する 俺たちの周りへ 俺たちは俺たちの脳の物語を投影する、箱を 灰色の、低い箱を 高い、赤い箱を 非常に多くを語っている箱を 静かなものを 箱が 箱のそばで 箱の後ろから のぞき見る 箱の群れの真ん中で 小さな来たものを、しゃべっている箱を それらを梱包してよい、ロックしよう! 誰が箱を壊すのか? 箱 広告の明るい世界は 輝く 昼間のように夜ごと、なんて仕事 打ち負かす すべての 墓の寸前で 震える街灯柱聖人たちを 説明を負う 罪を犯して醜いラッパズボンの裾の時代の ダイス村は 雨の中で灰色、俺は壁の中に溶ける そうじゃない、まったく本当、俺はどうだろう、誰が連れて行ったんだ? 俺たちは人生を反射する 俺たちの周りへ 俺たちは俺たちの脳の物語を投影する、箱を 灰色の、低い箱を 高い、赤い箱を 白い、ガラスの箱を 刑務所を、箱を 病院を、箱を 非常に多くを語っている箱を 静かなものを 箱が 箱のそばで 箱の後ろから のぞき見る 箱の群れの真ん中で 小さな来たものを、しゃべっている箱を それらを梱包してよい、ロックしよう! 誰が箱を壊すのか? 箱 注1;箱は複数形。 この曲は、ソロ名義での1stアルバム「Kun Suomi putos puusta」(1990)に収録されています。 孤独は、Ismoの音楽の重要なテーマの1つです。 Masentunut ameeba 憂うつなアメーバ
今夜 君はせめて少しだけでも僕を愛してくれませんか 今夜 君は僕に少し親切になってくれませんか 僕は気分がクソ悪い、僕は慰めを必要とする 今夜 君はせめて少しだけでも僕を愛してくれませんか 僕を愛撫し 愛さなければならない 僕を理解し 慰めなければならない 僕は憂うつだ、僕はアメーバだ 憂うつなアメーバ、憂うつなアメーバ 理解してくれ、慰めてくれ 芸術家を、偉大な人格を 今は良い夜だ、今は良い夜だ 今は良い夜だ、魔法をかけられた月、今は良い夜だ 今は良い夜だ、サクランボの口、今は良い夜だ 今は良い夜だ、魔法をかけられた月、今は良い夜だ 今は良い夜だ、魔法をかけられた月 今は良い夜だ、染められた口、今は良い夜だ 今は良い夜だ、今は良い夜だ 今夜 君はせめて少しだけでも僕を愛してくれませんか 僕の人生が漏れる、すべての惨めな年月が漏れる 僕は女性の接触を必要とする、なぜなら僕はいい奴だから 今夜 君は僕に少し情けをかけてくれませんか 長くて、弾力のある夜だ、君はそれを知っている 長くて、弾力のある夜だ、君はそれを感じる 僕は憂うつだ、僕はアメーバだ 人生は拷問だ、クリスマスソングが僕に語る 小妖精じいさん(注1)たちが跳ぶ やあ でも 人生は拷問で、退屈で そして非常に暗い 今夜 君はせめて少しだけでも僕を愛してくれませんか 注1;原詩では「tonttu-ukot」(=elf-old men)。Tonttuとは、フィンランドに古くから伝わるサンタクロースの手伝いをする小さな妖精。
この曲は、マルチプレイヤー Teho Majamäkiとのデュオ Ismo Alanko Tehollaの1stアルバム「Blanco Spirituals」(2008)に収録されており、作詞はIsmo、作曲はTehoとSielun VeljetのギタリストであったJukka Ormaとの共作です。
アルバムでは、Ismoのみのボーカルですが、同年リリースされたシングルヴァージョンでは、女性シンガー Jonna Tervomaaとのデュエットとなっています。
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YouTubeではオリジナル音源が見つからなかったため、2008年のライヴ映像をどうぞ。
2x1=1
池の水面が輝く 愛の光を 夕刻の中へ 崖の上で 目が輝きを増し 熱く燃える 2つの孤独な影が 溶け合い 消えていく 干し草畑が 風になびく そして 急流が 白波をたてる 空が地を 呑み込む そのとき 飛び込む 列車が トンネルの中へ そして 喜びの涙の中へ 自然が はじける 2x1=1なんだ もし 3にならなければ まもなく夜だ そして 残酷な嵐が 吹き荒れ うなる 大きなオークの木の下で くちびるが開く いざないへと 人の子たちが 再び 互いにからみ合い 溺れる |
Authorこのブログは、Ismo Alanko来日公演実行委員会が運営しています。Ismoファンの交流の場にできればと思っておりますので、どうぞお気軽にご参加ください。 Archives
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